文豪の作品をあまり読んだことがありません。
試しに、夏目漱石の『三四郎 (岩波文庫)』を読んでみました。
「ストレイシープ」というセリフが有名な青春小説ですね。
僕は、こういう作品をしっかり読んだ経験がとても少ないんです。
「じゃあいったい今まで何を読んできたんだ」という話ですが、自分にも分かりません(笑)
どの本に書いてあったか忘れましたが(※)、「漱石の小説を例に出して話をして、相手が読んでいなかったら、それは読んでいないほうが悪いということになる」じゃないですか。
(※)1時間くらい探したけど見つからなかった
いわゆる一般教養とかいうやつでしょうか。
とりあえず読んでおこうと思って、前期三部作である『三四郎』を手に取ってみたのです。
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楽しみきれなかった
読んでいる最中から、おかしな感覚を持っていました。
「これは多分楽しい小説だ。」
という小説の世界観への好感触と、
「でも、僕はきっとその楽しさを満喫できていないだろう。」
という自分の読む力への不足感を同時に持ったのです。
たしかに字面は追っているのだけれど、入り込んでもいないし、分析的にも読んでいないし、考え事もしていません。
まとめると、「『三四郎』は楽しい小説だが、僕には楽しく読めない」という、なんとも珍妙な感想(笑)
まあ、今回わからなくても、名作は何度も読めばいいです。
にしても、自分に起こったことは、どういう現象なのだろうと気になりました。
慣れとモデル
僕は、『三四郎』を楽しく読むことができなかった理由を考えました。
思い当たる理由は、2つです。
1つ目は、明治時代の文章に不慣れなこと。
『三四郎』は明治41年に新聞に連載された小説です。
言葉遣いや文のリズムは、平成の今とは少しだけ違います。
でも古語ではないから、読めていないことを自覚せずにどんどん進んでいってしまった可能性があるのです。
2つ目の理由(というか仮説)は、「漱石の読み方」を知らなかったこと。
松岡正剛さんの『多読術 (ちくまプリマー新書)』に、「モデル」という話が出てきます。
例えば野球。
イチローと松井は同じ打者だけど、違うタイプ。
見ている僕らは、松井のモデル、イチローのモデルで、彼らを見る。
松井が見送れば、松井という打者の特徴を頭に入れて「見送った」ことを見る。
それは、イチローが同じボールを見送ったことと意味が変わってくる。
みたいな話です。
『三四郎』を漱石のモデルで読むことができていたかと言われれば、NOですねえ。
明治への慣れ、漱石への慣れがあると、もっと『三四郎』を楽しめそうです。
それおもしろいね
以上、『三四郎』を読む力がなかった話でした(笑)
もう1回読もうかとも思ったのですが、飽きそうなのでやめました。
『それから』を読み始めました。
こちらは、まだ28ページですが、楽しく読めています。
こうやって、少しずつ読書する力がついていくんですねえ。
読書は楽しい。
■わたくし、学びのヒミツ結社の代表をしております
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